大学の授業

最近パソコンが重くなってきたので、使わないファイルなどを消そうとしていたら、大学時代に書いたレポートが出てきました。

 

少し恥ずかしいですが、そのまま載せてみようと思います。

 

なぜかこの講義のことは今でも覚えていて、哲学の授業だったのですが、死とはどういうものか、死後の世界は存在するのか、など自分の考えをまとめて提出するものでした。

 

以下、そのまま載せます。

 

私はこの授業を受けて、今まで考えなかったことや周りのことに深く考えることができました。授業では自分の死は考えることはできないとおっしゃっていましたが、私は考えることはできると思います。確かにそれは自分の死後残された人のことや自分が死んでいく過程かもしれませんが、それも自分の死を考えていることになると思います。実際にみることができるのは他人の死だけであるけれど、自分が死んだらどうなるのかとか、死ぬとはどういうことなんだろうと考えることも自分の死を考えていることに含まれると思うからです。今まで私が考えていた死とは、自分の意識というものがなくなって、肉体だけがこの世に残されるというものでした。しかし、この授業で、死とは無であり、何も体験できなくなるということであるというのを聞いて、その言葉にとても納得させられました。死を定義するなんで難しいことだけれど、もし答えがあるとしたら、死は無であるというのが、一番わかりやすくて正解に近いと思いました。

また、死の恐怖をめぐるアポリアでは、いろいろな説がありましたが、私は惜別説が一番考えられると思います。確かに死の恐怖は未練ではないかもしれませんが、未練があったら死にたくないと思うし、自分の家族や親しい人と二度とあえなくなることはとてもつらいことだと思うからです。どの説もこれは間違っていると言い切ることは出来ませんが、死の恐怖は「トラウマ説」とか「苦痛説」とか、ただ一つだと断定することは出来ないと思います。死の恐怖は人によって違ったり、遺棄されることの恐怖や形而上学的な恐怖など、色々な感情が混ざって、死の恐怖になっていると思う。

授業の中で、地獄説というものを習いましたが、私は死後の世界とはどういうものか考えてみました。一般に人間は死んだら、この世から切り離されてあの世にいくといいますが、あの世とは本当にあるのか疑問に思いました。この世に生きている人は死なない限り死んだ後どこに行くのかわかるはずもないし、もし本当にあの世があったとしても、あの世の人はこの世の人にそれを教えることは出来ません。だから私は、“あの世”というものは結局今生きている人が、親しい人が亡くなって、今でもほかの場所でいいから幸せになってほしいという思いから、勝手に作り出した世界だと思います。

しかし、それを確かめる方法は死ぬしかありません。死について考えることは無意味なことだと思う人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。人間はいつか必ず死ぬし、死は死なないとどんなものかわかりませんが、他人の死に向き合ったり、死について考えることで、何か見えてくるものがあると思います。

私もこの授業を受けるまでは、こんなに深く死について考えたり悩んだりすることはありませんでしたが、授業を聞いて、こういうとらえ方もあるんだと新たな発見があり、考え方も変わってきました。死ぬことと生きることは似ていると思います。だから、死を考えることで、自分のこれからの生き方を考えることが出来ると思います。

 

たぶん今はこんな文章は書けないだろうな……。

 

昔は授業なんて全然面白くなかったし、授業中寝てることもあったけど、最近は勉強できることがうらやましい。

 

お金と時間があったらもう一回学校にいきたいなと思います。

 

現代文、古文、漢文、英語、数学、日本史、世界史、化学、生物などなどいろんなことを一度に学べるなんて貴重な体験だと思います。

 

部活やサークルだって学費を稼ぐために活動日数が少ない文化部に入部しました。

それはそれで楽しかったし、後悔しているわけではないけれど、もっと充実した学生生活が送れたかもしれないなーと。

 

当時は異性に興味とかあまりなかったので、化粧とかもほとんどしなかったけど、もっとおしゃれに気を遣って彼氏とか作って、制服デートとかしたかったなー。

 

こんなことを考えるなんて、それこそ年をとったってことなんでしょうね。